メソ体、そして少しの数学

少し詳しく化学を勉強した人ならば、立体異性体の話に関連して「メソ体」あるいは「メソ化合物」という言葉は聞いたことがあると思います。

  • キラル中心(特に不斉炭素)をいくつか持つが、鏡像がそれ自身と異性体にならない分子

というのが普通の定義でしょう。メソ体になる自明なものとしては、分子内対称面を持つ分子があります。これは広く知られた話でしょう。

さて、ここからが問題です。

この定義の後、「定義よりメソ体は必ず分子内対称面を持つ」と書かれている文献がかなり多く見られます*1。あるいは定義自体に「分子内対称面を持つ」という内容を含めてしまっているものすら散見されます(ここではその定義は取りませんが)*2

しかし、分子内対称面を持たないメソ体はたくさんあります。そのひとつがラクチド(乳酸2個の環状エステル)です。乳酸にはD型とL型の2種類の光学異性体があるので、D-D, D-L, L-D, L-L の4種類の光学異性体がありそうですが、実際には D-L と L-D は環を180°レコードのように回すことで重なってしまうので、結局3種類になります*3。D-L と L-D は鏡像の関係にあります(環に平行に鏡を入れることを考えてみると分かりやすいです)が、両者は同じですから、まさにメソ体ですね。この分子はメソラクチドと呼ばれていて、分子構造は図の通りです。

さて分子構造を見ると、どこにも対称面はありません。「定義よりメソ体は必ず分子内対称面を持つ」というのは間違いだと分かりました。

ではメソラクチドは対称性が無いのでしょうか?実はメソラクチドは環の中心について点対称になっています(単結合は上手く自由回転させてください)。一般に、分子内対称中心を持つ分子は必ずメソ体になるのです。*4

これを踏まえてのことかは分かりませんが、「メソ体は不斉炭素原子が偶数で、かつ、分子内に対称面または、対称中心がある場合に限って存在する」と書いてある参考書(三省堂『化学の新研究』)もあります。しかし、これでもメソ体はまだ尽くせていないのです。

炭素原子に乳酸が4個結合している状況を考えましょう*5。さらに4個の乳酸のうち、2個がD型で、2個がL型である、というような状況を考えてみましょう。さて、この鏡像を取ってみると、D型はL型に変わり、L型はD型に変わり、結局2個がD型で、2個がL型である構造に戻るので、元と同じになります。メソ体です。しかしながら、これは明らかに分子内対称面も分子内対称中心も持ちません!先ほどの参考書も間違っていたわけです。

さて、こうして考えると、「変なメソ体」はいくらでも考えられそうですが、一般にメソ体になる条件は何なのでしょうか?まずは自由回転などの無い剛体について、メソ体になる条件――ここではキラル中心の有無のようなことは気にせず、単純にその鏡像が平行移動と回転によって元の剛体と重ねられる条件――を考えることにしました。

と思ったのですが三次元の回転を扱う方法をよく分かっていなかったので、数学の先生に質問してみました。程無くして、連続写像についての一般的な性質を利用する考え方と、行列を使う考え方の、2つの考え方を教わりました。前者はかなり味わい深いのですが、ここでは後者の行列を使う考え方を受け売りで紹介します。ちょっと線型代数を学んだ人なら明らかなことばかりだとは思いますが。

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まず、考える剛体の重心を原点に取ると、回転はその原点を中心とするもの、鏡像を取る作業はその原点を通る平面に関する(面)対称移動に限ることができます。そうすると、回転も対称移動も、座標ベクトル \vec{r} = \begin{pmatrix}x \\ y \\ z\end{pmatrix} に対してある行列 A = \begin{pmatrix}a_{11}&a_{12}&a_{13} \\ a_{21}&a_{22}&a_{23} \\ a_{31}&a_{32}&a_{33}\end{pmatrix} を掛ける操作 A \vec{r} とみなすことができます(座標変換の一種です)。

さて、今考えている剛体がメソ体であると仮定します。この剛体をある平面で対称移動して、さらに何らかの回転を施すと、元の剛体に戻ります。その対称移動の行列を S、回転の行列を R とすると、2つを合わせたもの AA = R S となります。A は元の立体の形や大きさを損ねない変換であるので、A=\begin{pmatrix}\vec{a} & \vec{b} & \vec{c}\end{pmatrix} つまり

A\begin{pmatrix}1 \\ 0 \\ 0\end{pmatrix}=\vec{a},\ \ \ A\begin{pmatrix}0 \\ 1 \\ 0\end{pmatrix}=\vec{b},\ \ \ A\begin{pmatrix}0 \\ 0 \\ 1\end{pmatrix}=\vec{c}

とすると、

|\vec{a}| = |\vec{b}| = |\vec{c}| = 1,\ \ \ \vec{a}\cdot\vec{b} = \vec{b}\cdot\vec{c} = \vec{c}\cdot\vec{a} = 0,\ \ \ \mathrm{det} A = -1

という性質が成り立っています。さて、このような A について、

A \vec{r} = \lambda \vec{r}

なる実数(固有値\lambda と大きさ1のベクトル(固有ベクトル\vec{r} が存在するかどうか考えましょう。\lambdaA固有値である条件は \lambda

\mathrm{det}(\lambda I - A) = 0

の実数解であることです(少し考えると分かります)。関数 f(\lambda) = \mathrm{det}(\lambda I - A) を考えると、これは3次の多項式であり、3次項の係数は 1\ (> 0) であり、定数項の係数は -\mathrm{det} A = 1\ (> 0) であるので、方程式 f(\lambda) = 0\lambda_0<0 の範囲に実数解 \lambda = \lambda_0 を必ず持ちます。さらに |A \vec{r}| = |\lambda \vec{r}| より \lambda_0 = -1 です。つまり A \vec{r_0} = -\vec{r_0} なる \vec{r_0}必ず存在します

ここで、原点と \vec{r_0} を結ぶ直線 l を考え、その直線と垂直で原点を通る平面 \pi_0 を考えます。そうすると、A はまずその平面 \pi_0 についての対称移動 S' と、適当な回転 R' を用いて A = R' S' と表すことができます(これは直感的にも明らかだと思います)。ここで、S' \vec{r_0}= A \vec{r_0} = -\vec{r_0} より、R' \vec{r_0} = \vec{r_0},\ R' (-\vec{r_0}) = -\vec{r_0} であるので、R'l を軸とする回転しかありえないのです。

以上、回転が非常に単純化されました。ここから少し考えると、ある剛体がメソ体になる条件は、以下のいずれかひとつが成立していることになります。

  • 面対称である場合。
  • 点対称である場合。
  • ある平面 \pi とそれに垂直な直線 l があり、ある自然数 n があり、\pi でその剛体を(例えば上下に)切ると、上側と下側が鏡像の関係にあって、それぞれ軸 l について 2n 回対称((360/2n)°回すと元に戻る)であり、単純な面対称の場合と比べて (360/4n)°ねじれている場合*6

お疲れ様でした。図を全然描かなかったので分かりにくいとは思いますが、具体例をいろいろ考えてみると感じがつかめてくると思います。

剛体で無くて単結合での自由回転がある場合は多少考えることが増えますが、基本的に変わりないと思います。

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受験化学をちょっと寄り道して楽しみたいと思いつつ解かれないままの問題集が目に入る受験生生活なのでした。

*1:英語版Wikipedia "Meso compound"Chemwiki "Meso Compounds" など

*2:日本語版Wikipedia「メソ化合物」など

*3:どうして僕がこんなことを知っているのかを一応言っておくと、これが大学入試でかつて出題されたからに他なりません。

*4:興味深いことに、メソ体でない D-D や L-L の組み合わせのものは環の中心を垂直に貫く軸について線対称になっています。線対称の場合は、メソ体になる場合とメソ体にならない場合があるのです。

*5:結合の状況は4個とも同様であればここではいいのですが、例えばメチル基の水素を取って核となる炭素原子に繋げるというような状況を考えてください。また、ここでは安定かどうかという話は気にしないことにしましょう。

*6:なおこの場合、常に線対称になっています。